義経伝説と四浦半島

平成14年四浦西中学校同窓会でhpの話をして、写真と一緒に頂きました。

荒代」[四浦西中]「四浦」[TOP]作成:平成14年9月8日

画像が重たくてごめんなさい
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義経伝説と四浦半島

松尾じゅうろう

私は、大分県津久見市四浦の、仙水地区の、荒代に、生まれました。
四浦半島は、津久見から、10km南東から、始まる豊後水道に、突き出た、細長い、岬です。
仙水地区、荒代は、急傾斜の山が、海岸まで迫り、美しい浜に、連なる海は、無垢島、高島が、浮かび、その向こうには、四国の佐田岬が、望めます。
この、四浦半島に、義経、あの牛若丸の、生きた、足跡が、沢山残されています。

仙水地区、鳩、荒代に、次の、地名場所が、残されています。
1、弁慶石(なぎ刀で、スバッと、切った岩山と、海まで落ちた大岩)
2、弁慶の足跡(足型の、水たまり)
3、トイシガハナ(弁慶が、なぎ刀を、研いだ石のある、岬)
4 白子島(しろこじま)
5、貴船島(きぶねじま)
6、鶴ノ首 (つるのくび)
7、人形石
8、猿渡(さるど)
9、清水(そうず)荒代にある地名 →岩清水(いわしみず)
10、十郎川(荒代を流れる川)とお堂(おどう)荒代にある地名
11、観音崎
12、無垢島
13、大峰

謎と伝説に彩られた人物、義経
説によると、義経は幼名を牛若丸といい、1159年源義朝を父に、常盤御前を母に生まれ、生まれて間もなく、父は、平家との戦いに敗れ、母の命ごいの結果鞍馬の寺に預けられ、元服し源九郎義経と名乗り、やがて奥州平泉の藤原秀ひらに、養育され、兄頼朝が、平家打倒の兵を挙げると、いち早く駆けつけ、その後、京にいた木曽義仲を討伐し京の安定に努めた。

その後義経は西国の平家打倒の軍を率いて、一の谷にこもる平家の大軍を「ヒヨドリ越え」の逆落としでやぶり平家に大打撃を与えました。
その後、頼朝の命令で京都に帰った義経は、都の治安に努めて京の人達の尊敬を受けましたが、後白河法皇の画策に乗り、頼朝の許可なく、検非違使、左衛門少将(判官)に勝手に任官したとして、平家討伐の役を解任されました。

しかし、兄の源範頼の平家にたいする戦いが、はかばかしくなく、再び1185年義経は、平家討伐の大将に登川され、四国屋島に陣取る平家軍を破り、次いで三月には、長門の国壇ノ浦で平家を壊滅させ、源氏の勝利を確定致しました。
しかし頼朝から、人気の出た義経は危険しされ、義経は兄に敵対する意志のないことを、弁明したが聞き人れられず、鎌念人りをも拒否され、京に帰った義経は、頼朝から刺客として土佐坊昌俊を差し向けられ、聾撃される結果をうんだ。

ここに至り1185年10月打倒頼朝の軍を起こす決心をして、後白河法皇の院宣を受け源行家(義経のオジ)と共に挙兵したが鎌倉の頼朝は、いち早く打倒義経の兵を京郎に向けて出陣させた。そのため、義経のもとには少しの軍勢しか集まらず、仕方なく後白河法皇から九州地頭職に任官してもらい、西国で軍勢を集めるため11月摂津国大物浦を船で出発した。

ところが強風で船が難破してしまい、武蔵坊弁慶らの少数家臣と共に吉野山、大峰と逃避行を続けた。しかし、鎌倉方の探索が厳しく義経は再び奥州の藤原氏を頼って北へ逃避行を敢行した。

1187年やっと義経が平泉に潜伏しているのを知った頼朝は藤原秀ヒラに義経の引き渡しを要求したが、拒否されていた。
翌年秀ヒラが、没して泰ヒラが、家督を継ぐと、泰ヒラは頼朝の要求を拒み切れず、衣川館に義経を攻めて。討ち取り1189年6月義経の首級は、鎌倉へ送られ、義経は31歳の生涯を終えたとなっています。

平泉で死んだ義経がなぜ四浦半島へ
弁慶と逃げた義経は替え玉
1185年11月義経は九州をめざして落ち延びるため、船で出発しましたが難破して、吉野山、大峰と逃げ一時京に戻り頼朝の探索が厳しいため弁慶らと奥州をめざしたことになっていますが、京より東は頼朝の鎌倉方が義経を捕らえるべく軍勢をしいていますそこへ逃げて行くのは自殺行為です。弁慶は敵の目をあざむくため義経の身替を仕立て奥州をめざし、義経は当初の予定どおり九州をめざすのが自然だとおもいませんか。

四浦半島は大和と九州を結ぶ交通の要所
現代日本の第二国土軸(東海地方から近畿四国、佐田岬から大分佐賀関を通り長崎まで高速道路をつくり交通の新しい流れをつくる)を、作ろうと計画されていますが。
この交通ルートは古代大和朝廷の時代より開けていたとおもわれます。
このルートは奈良大和より和歌山の紀ノ川沿い通り和歌山市加太をへて淡路島そして鳴門徳島、吉野川をさかのぼり新居浜平野から東予に至り中山川沿い松山平野から伊予海岸を通り、長浜、大洲そして八幡浜から佐田岬半島の三崎至る、この三崎あたりから船を出せば秋から冬、春までは、北風が四浦半島まで楽々と渡してくれます。
四浦から津久見、臼杵、野津、三重、竹田、そして阿蘇を越えて熊本平野にでて宇土、天草までと、熊本から佐賀筑紫平野へ至りさらに福岡へ北上し大陸へのルートと、佐賀から長崎に至ルートができていたとおもわれます。

淡島様と四浦半島 (近畿と九州をむすぶ流れのひとつ)
淡島神社、淡島様は和歌山市加太にあり、祭神は少彦名命と神功皇后で帰人病に霊験在とする神社ですが、淡島様は香川県では、女の子が生まれると、ワラの船を作り女の幸せを願って海にながすそうです。
この淡島様が四浦半島、大峰と猿渡の中程に祭られています。そして淡島様は熊本宇土にも祭られています。
祭神の神功皇后はクマソ征伐の後新羅に遠征し服属させたと言われる古代の伝説的な皇后であり、もう―人の少彦名命はオオクニヌシノミコトと協力して国造りにあたった神様といわれていますが、この神社が大和と、九州を結ぶルート上にあるのは大きな意味があるとおもわれます。
(紀伊水道に面した徳島県阿南市にもあります)

義経は四浦半島で生涯をおえた。(地名に秘められた義経伝説)
義経は上記のルートをたどり、四国佐田岬より豊後の国、四浦半島にたどり着いたと考えます。
義経は、貴船島を通過し鳩浦へ上陸し、河内の奥を通り大峰へ登り淡島様が、奉られている、峰の道をたどり、荒代の上の猿渡(サルド'に隠れ住んだとかんがえます。
荒代から猿渡へ連なる山を「御山」(おやま)と呼び、この山の上に平たい岩壁がありここは、「時のこえ」(ときのこえ)と呼ばれています。
この場所にたって海を望めば日の前に、無垢島、左手の半島が、観音崎その先に、高島、佐賀関そして右手には、保戸島、四浦半島が一望出来るだけでなく、四国の山々まで、望めます。
京、鎌倉より義経の追っ手が来るならば、船を使用するしかなく、四国からの船の動きを、監視するにはこんないい場所はありません。
説によると義経は身が軽く猿(ましら)と呼ばれ、壇ノ浦の戦いにおける「八艘飛」でしられていますが、正に猿(義経)が来たのです。
その場所が猿渡です。ここは、山と山の凹地なっておりすぐ近くは水もありまた身を隠す岩山があります義経はここに住み「時のこえ」から追っ手の、動きを監祝し静に世の動きを測ていたと考えます。
やがて隠れ住む義経に弁慶と、自分の身代わり(義経)が、奥州平泉衣川館で壮絶な最後を遂げたことが伝わったことでしょう。

観音崎に祈りをささげた義経
弁慶が死に、愛する静御前が死に、義経にゆかりの人々が次々と亡くなってゆきました。
義経は隠れ住む、猿渡の「御山」より、豊後の海を眺め、自分とかかわりのあった人達、自分が滅ぼした、木曽義仲、平家一門の人達を含め、義経は心静かに、手を合わせたことと、思われます。義経は、観音様を信仰していたと言われ、青森県津軽地方には、観音様を祭る「義経寺」があるそうです。
義経は、人々の霊の平安を、この細長い半島、観音崎を、仏様に見立て「御山」の岩場「時の声」より祈りをささげたものとおもわれます。

荒代に残る義経ゆかりの地名
十郎川と言う川が海に注いでいます。この十郎川の奥には「お堂」と言う地名がのこっています。
義経は今で言う、国際子配の大罪人です。
「身代わりの義経」が、弁慶とともに奥州平泉で、打ち取られたとは言え、当時は、肉親でも血で血をあらう時代です。
義経の血族がいることが分かれば、一人残らず、皆殺しにあいます。
義経、そして義経に連なる人達は、自分たちの存在を知られるわけにはいきませんでした。
しかし、義経は、ここにいたんだよと、言う証しを残しておきたかったと考えます。
その証しが九郎義経が住んだ場所、それが「十郎川」であり川の奥にある「お堂」であると思われます。
九郎義経はここで静かに最後のときを迎えたと考えています。

荒代に眠る義経 「清水(そうず)」と石清水八幡宮
荒代には「清水(そうず)」と言う場所があり、墓地になっています。
ここには「虚無僧墓」と呼ばれ、身分の高い落人の武将のお墓と言われている石積のお墓が、ひっそりと残されお参りされています
。この場所は、岩場で石の上にお墓が作られお祭りされています。
この地名「清水(そうず)」は、実は「石清水(いわしみず)」であると思われます
源氏の代々の守り神、氏神は京都府にある「石清水八幡宮」ですが、この四浦の義経にゆかりの人達は、荒代の岩場に墓所を作り「清水(そうず)」と言う地名を残して源氏の非運の共雄、義経が、この地に祭られていることを密かに、現代の人達に知らせているのではないかとおもわれます。

静御前と白子島
静御前は義経が最も愛した女性で、京の都で一番の舞姫であったといわれています。
当時の舞姫は「白拍子」ともよばれ、歌い踊る静御前のことは、よくしられています。
静は、義経と離れ離れになった後、義経の子供を、産みますが、二人の子供は生まれるとすぐ、源頼朝の命により殺されます。
静御前は、悲しみのあまり、わずか二十才で世を去ったと伝えられています。
荒代の先の小島「白子島」は、義経と義経に連なる人達が、静御前と、幼くして亡くなった義経の子供を忍んでつけた名前であろうと思われてなりません。
冬、海の荒れた日「白子島」を望むとき、正に「鳥帽子」をかぶった静御前が、波の中から浮かび上がろうとしているように思えてなりません。

弁慶と義経 (残された弁慶ゆかりの地名)
弁慶は義経が牛若丸と名乗っていたとき、京の五條の大橋で出会い、以後常に義経のそばで義経を助けて、最後は奥州平泉、衣川館で、義経をかばって弓矢を全身に受けて立ち往生して死亡した、機知と武勇に優れた人物です。
義経とは切っても切れない弁慶その弁慶にまつわる地名が沢山のこされています。
「弁慶のげた」観音崎より赤崎よりにあり、潮が引くとよく見えます。

「弁慶の足跡」荒代から鳩へ向かう岬の下にあり大きな足跡が、海水のたまりになっており貝類と、小魚が遊んでいます。
この岬を「といしがはな」とよび、弁慶が荒代より鳩へ行くのに、この岬を回った所に岩壁が立ちはだかって行く手をふさいでいたため、弁暖はこの岩を切るため、岬の岩で大ナギナタを研いだのです。
力をいれて研いだため、海ぎわに弁慶の足跡が残ったとおもしろくつたえられています。  
「弁慶石」弁慶が行く手を遮る岩壁を、大ナギナタで、一刀のもとに切り落としたと言われる大岩と、スバッときれた岩壁が、残されています。
車が通る道路が昭和46〜47年ごろできましたが、そのとき、弁慶がスバッと切ったという岩壁は、断念ながら、セメントが吹き付けられて、昔の迫力はありませんが、スバッと切ったという当時の面影はのこされています。
弁慶にまつわる地名がこのように残されているのは、義経の弁慶に対する思いの深さがしのばれます。

「人形石」と常盤御前
弁慶石をすぎると人形石があります。荒代、鳩浦どちらから見ても人形にみえ、よく見ると涙を流している様にみえます。
義経の母は常盤御前といい、源義朝との間に、義経をはじめ三名の子をもうけた、絶世の美人であったと言われています。
義経をはじめ義朝の子供達は父が、平家、平清盛との戦いに敗れたとき、ともに殺される運命にありましたが、常盤御前が、自分の身を投げで出し清盛に命ごいをして、義経らはかろうじて、命を永らえることができました。
この人形石、涙を流して源氏と別れた、常盤御前の姿とダブります。
涙のにんぎょうです。

貴船島と義経
鳩浦の沖にある小さな小島ですが、島にはお社が祭られ、昔より貴い島であるといわれ仙水地区の夏祭りがあると「神こし」を乗せた船が太鼓の音とともに島を回り、お神酒を海に、ほこい析りをささげます
貴船〜 義経が母の命ごいにより、鞍馬山に預けられ成長したことは良く知られておりますが、貴船は鞍馬山の麓にあり、義経は、この貴船を通過して鞍馬の寺に入り初めて命が助かりました。
貴船島も義経が、四国を通り追っ手を逃れ命からがら、この四浦半島まで逃げて来て鳩浦へ上陸することができる、これで命が助かるという生死の通過点の島が貴船島であろうとかんがえられます。
また貴船島の底には竜宮城へつながる洞穴が口を開けているので、近くで泳ぐのはやめなさいと、言われておりましたが、これらの言い伝えもこの島が義経にとって生死をわけた正に貴い島であったものと考えます。
豊後の海に浮かぶこの貴船島は、わたしたちにとって大切な小島です。

「鶴ノ首」と義経
貴船島より南東、刀自ヶ浦がわを眺めると、鶴の首に似た岩場があります。大分県には鶴の名前の付いた地名が沢山ありますが、忌まわしい首が付く地名はおどおどしく、いやな、名前です。
始めは、ただ鶴の首に似ているため、つけられたものと考えていましたが、この鶴ノ首は、義経が鎌倉方の追求の手を、逃れこの四浦の地に上陸し、つけられた名前であるとおもわれます。
兄頼朝は、源氏の氏神である「石清水八幡宮」より紹霊し、錬倉に「鶴ケ岡八幡宮」を造営し、ここを、鎌倉幕府の政(まつりごと」をする場所と定めました。
義経と頼朝は、兄弟でありながら血で血をあらう、争いを続けてきました。
この「鶴ノ首」という地名は、まさに、兄頼朝そして鎌倉「鶴ケ岡八幡宮」とスッバリと別れ、この九州の地で生きる決意を込めてつけられた名前ではないかとおもわれます。
冬、白波が打ち寄せる「鶴ノ首」の岬は、風の音さえ悲しくないています。
沖に浮かぶ貴船島と切り離せない地名であろうと思われます。

「河内の奥」から大峰へ
鳩浦に「河内の奥」という場所があり峰への道は、ここを通り、長田山へ登りそして、大峰へさらに、淡島様が祭られる峰の道、そして猿渡へ続いています。
義経は弁慶らと、九州を目ざし、摂津国大物浦を船で出発しましたが、強風のため船は難破し、大阪、住古の浜に打ち上げられ、義経の軍勢は、チリジリになり、義経は少数の家臣とともに、大阪河内長野を通り、吉野山へのがれ。
追っ手が厳しいため、さらに熊野大峰へ逃れ、鎌倉がたの追求をのがれました。
仙水地区の「河内の奥」「大峰」も、義経にとって九州の逃避行の地名であろうとかんがえられます。
「大峰」には、弥生式土器も出土する遺跡がありますが、この遺跡、前記した通り、古代の大和朝廷と九州を結ぶ、交通の要所であったことを示す貴重な遺跡であろうとおもわれます。
義経はこの「大峰」を通り、淡島様へ析りをささげ、「猿渡」へおちのびたものとおもわれます。
義経はなぜ九州の奥地に逃げず四浦半島にとどまったか。
義経は、後白河法皇の策にのり、頼朝追討の「院宣」をもらい、京で、兵を募ったところ「緒方これちか」以下九州の豪族も、駆けつけ15、000名の軍が結集したとつたえられています。
しかし、頼朝も同じく「法皇」より義経追討の「院宣」とりつけ、鎌倉方は70、000名の軍を集めて義経追討軍を組織したため、義経は、戦わずして、九州をめざして逃げたと言われています。義経の乗った船が難破した時から義経軍は、崩壊いたしました。

たとえ義経が九州へ逃げ延びたとしても、九州の豪族で義経を、かついで立ち上がる、要素は、もうなかったとおもわれます。
それと同時に九州の各地には、皮肉にも、義経自身が滅ぼした平家の落人が、それぞれ、隠れ住んでおりました。臼杵の「西神野」「東神野」津久見の「八戸」、佐伯、宇目の藤河内まで平家の人々が、息を殺して隠れすんでいる状況です。
義経はこの四浦半島から動ける状態ではなかったとかんがえられます。

平安、京言葉がのこる仙水地区
四浦半島は、昭和40年代になるまで、交通手段は、細い山道を歩いて行くか、船で行くしかない、まさに陸の孤島でした。
そのような地区に次のような言葉がのこされています。
「歩でゆく(かちでゆく)」「かむげる」「おおきに」「だんだん」「おごめん」等など平安、京言葉と言われていますが、私たちの祖父母の代までは、いとも自然にかたられていました。
この言葉、平家の落人の人達の影響かと考えていましたが、義経は、京で生まれ、人生の大半を京ですごした京のひとです。
この平安京言葉も義経伝説の証しであろうとかんがえられます。

秘められた義経伝説と四浦半島
ふるさと四浦半島に残されている義経ゆかりの地名は、いずれも義経との係わりを、あからさまにせず、それでいてあの源氏の悲劇の英雄九郎判官義経が、この四浦の地にいたことを密かに伝える地名を、沢山現代までのこしています。
豊後の海に横たわる四浦半島、その沖にうかぶ無垢島、義経はこの地に来て源氏の大将であったことも、今までの栄光と悲劇につつまれた生き方も、この四浦半島から、豊後の海を心静かに望むとき、海に浮かぶ無垢の島のように、やっとすべてと、決別し、この四浦の海のように、穏やかで、無垢の心に立ち返ることができたのではないでしょうか。
今日も四浦半島は、九郎判官義経の伝説を秘めて、豊後の海にたたずんでいます。