保戸島小学校100年の歩み資料

保戸島小学校々歌
作詞挾間松男
作曲杉田信男
一、潮の香高く瀬の浜に
  吹き上げ香る海の気を
  胸いっぱいに吸いこんで
  進んで学ぶ私たち
  ああほこらかな保戸島小学校
二、海鳴り遠き大洋を
  見渡す遠見の空のごと
  心ひろびろ澄み渡り
  手をとり学ぶ私たち
  ああしあわせな保戸島小学校
三、世界の海を庭として
  乗り出す船のたくましさ
  力あふれる海の子と
  汗して学ぶ私たち
  ああすこやかな保戸島小学校
保戸島小学校沿革略史
明.11.9 穂門小学校創立(10.15開校)
大.8 穂門尋常高等小学校となる。
昭.12.12 現在地に校舎移転。
昭.2O.7 職員室に直撃弾を受け校舎及び重要書類焼失。
(7.25教諭2、児童124名爆死)
昭.29.8 宿直室落成。
9 台風12号により2教室大破。
昭.30.2 新校舎落成。
昭.31.2 電話開通。
昭.32.11 学校用井戸竣工
昭.36.5 水道施設落成。
昭.40.10 鉄筋校舎落成。
昭.42.11 プール完成。(25メートル)
昭.45.5 給食室竣工。(完全給食開始)
昭.48 2階南側・職員室南側アルミサッシ取替。
昭.49.10 アルミサッシ取替完了。
昭.50.7 防球ネット完成。
8 校舎北側窓アルミサッシに取替。
昭.51.8 給食室への通路、図書室・保健室・放送室完了。
10 低鉄棒。総合遊具取付。
昭.52. プール給排水施設完備。
プールさく完成。
体育館、水槽設備完成。
放送施設(島内向け)完成。
昭.53. 百周年記念事業として諸施設の完備。
○校旗。校歌完成。
○視聴覚設備完成。
○記念碑建立、校門設置。
○体育館内幕―切、いす・テ-ブル・台車備付。
○ピアノ購入。
○ナイター施設設備。
○学級図書購入。
主な歴史的事柄
明治4 文部省設立
廃藩置県の際第4区第17小区となり用務所の管轄に属した
明治5 学制頒布
明治11.1教則改正、上下二等 8ヶ年
郡町村制法に依り北海部郡に編入 保戸島役所を設ける
穂門小学校を開校(2年、4年)
明治12 教育令を公布
内閣制度成立
明治15.2教則改正、初中高三等
明治18 内閣制度成立
明治19 諸学校令を公布
明治21 市制、町村制を公布
市制郡町村制実施に際し四浦と合併し四保戸村となる
明治2 大日本帝国憲法公布
明治23 教育勅語発令 四年制
明治25.10四保戸村を分離して保戸島村と改称
明治27 日清戦争起こる
明治31 村の仕事としてはじめて消防組ができた
明治32 高等女学校令公布
明治33 義務教育四年制確立
明治36 国定教科書制度成立
水産協同組合法に基づき保戸島村漁業協同組合を設立
明治37 日露戦争起こる
明治40 義務教育年限六年
明治41.4.1改正小学校令
尋常科六年
高等科二年
明治42 病院(安藤医院)が開業
保戸島郵便局が開局
明治45 電灯がついた
大正3 第―次世界大戦勃発
大正7 米騒動起ニる
大正12 関東大震災
大正13 郵便局に電信開通
大正14 全国水平社できる
普通選挙法を公布
大正14.3保戸島に電灯開設(戸数460)

昭和6 満州事変
昭和10.9.13保戸島に電話開局
昭和12 支那事変
昭和14 第二次世界大戦勃発する
昭和14.12新地に大火災が発生した
昭和16 国民学校令を公布される
太平洋戦争勃発する
昭和17 文部省、戦時家庭教育指導要領制定
昭和19 集団疎開
学徒出陣
昭和20.7.25保戸島小学校被爆
昭和2O.8終戦、広島。長崎に原子爆弾投下
昭和21 日本国憲法公布
昭和22 教育基本法、学校教育法公布
六・三・三・四制を定める
昭和25 朝鮮戦争勃発
昭和26 津久見市iニ合併、津久見市保戸島となる
昭和35 日本安保条約に調印
昭和36 水道が開設された
昭和39 オリンピック東京大会
昭和48 海洋汚染防止の為、共同ゴミ焼却場が出来た
保戸島の歴史
 保戸島小学校百年祭の記念誌の編集に当り島の歴史の一端を述べて見たいと思います。
 保戸島は津久児市より海路14粁、北緯33度6、東経132度1に在りて島の形容は東西1.2粁、南北1.6粁余周囲約4粁、面積0.843平方粁で標高184米の遠完山を項点とす急峻な傾斜地は過去、日本の離島が辿った貧しさを其の儘に、段々畠は連なり耕して天に至っている。
 北及び南東側の海岸線は絶壁となり海上に浮ぶ高甲岩を初めとする小岸礁郡は豊後水道の潮流に洗われ、大潮時に於る激流は渦汐となり、永年に亙る怒涛に浸蝕された三郡の高甲岩は眺望に価いする奇観を形造っている。
 集落は西側谷問の中腹迄続き、戦後離島振興法の発効と遠洋漁業の復興に依り急速な発展を遂げ離島には珍らしい過密状態となり、漁港岸壁を初め、コンクリートで囲まれて密集した集落は、さながら西欧の孤島を思わせる景観を呈している。
 其の昔、12代景行天皇が熊蘇征討のみぎり此の地に舟を倒留どめになり美しい海藻を御覧になり其の美しい海の藻を取れと勅し兵は勅に応じて海藻を取って差し上げると天皇は舟を御進めになりた(箋釈風土記)此の麗わしい海藻(ほつめ)の故事から此の海峡を最勝海勝門(ほつめのと)と言い後に最門と言い穂門と書く様になりた。
 当時は津久見〜津久見浦〜四浦〜上浦〜大入島を含めて穂門郷と呼ばれ何時の間にか呼限が狭められて保戸島のみが其の名を留どめている(風土記、豊後国史)
 文化7年(1810)伊能忠敬測量記、2月29日幕府の測量巡航士(伊能忠敬)来航、西泊人家4軒を経て保戸崎に至る。人家多数イ有り一周を測す。28丁7間2寸、風波に依り見切り5丁ばかり船寄せず上陸を得ず、一同8ツ頃に津久見浦に帰宿す(豊後国史)
 保戸島に何時頃から人が住み若いたかは不l明であるが、日本の離島に人が住み着いた共通の事情として次の事が挙げられる。
  (1)中央で戦いに敗れた―族が政治的な弾圧を逃れて島に移り住む
  (2)宗教的な弾圧(禁教令等)に抗し得ず白由を求めて住み着く
  (3)本土や他の島から季節労働に来たり遭難等に依り漂着して住み着く
 保戸島に祭神(加茂神社)が勧請されて創立したのが天文4年(1553)であることから、其れ以前に島に人が住み着き集落が出来ていた
事は容易に想像される(室町中期頃と思われるも現存記録無し) 当時中央に於て闘い敗れた一族が政治的な弾圧を逃れて南下し島に移り住んだ事が考えられる。そして当時の名残りとして島の部落に遺る。 上渉路西小路浜小路等の地名や島に伝わる慣習及び方言の数々に再び帰ることが無いであろう遠い故郷(京)を偲ぶよすがとした一端をうかがい知ることが出来る。
 村社加茂神社は島の守護神として天文4年(1553)5月吉日に京都の上加茂神社(現在の京都市上京区)より別雷命が遷移勧請された。(現在の花崗岩製手洗水針の記名及び橋佐古氏蔵書)当時の加茂神社は中央(京)に於て皇室と民衆の尊崇高く伊勢神宮に次ぐ畏敬ある神社であった。
 保戸島は幕藩時代は臼杵藩に所属していたが関ヶ原戦後の慶長6年(1601)に佐伯に転封された毛利氏は着任直後に臼杵の稲葉氏と津久見の1部(津久見の中心地の警固屋)を交換した。佐伯領の警固屋を手放し、臼杵藩から保戸島を人手したことは海の開発と海上交通の拠点として保戸島が重要と考えたからと思われる。以来佐伯藩の所領として維新を迎えた。
 明治4年廃藩地県の際、第4大区第17小区となり用務所の管轄に属した。
 明治22年4月1日町村制実施に際し四保戸村となる。
 明治25年10月四保戸村を分離して保戸島村と改称、
次いで昭和26年4月1日、津久見町、日代村、四浦村ともに合併し津久見市大字保戸島となる。
 明治36年4月4Π水産業共同組合法に基ずき保戸島漁業協同組合を設ける。
 大正4年2月に組合規約を改正し共同販売事業を実施、昭和11年に名称を保証責任漁業協同組合となる。
 明治42午に保戸島郵便局が開設され大正13年に電報が開設された。終戦迄は無垢島迄電報を配達した。現在は島内のみである。
 明治43年に病院が開業され従来よりの無医村は解消された。其の後島の人口増加に併い一軒と二軒を繰返して現在は―軒(安藤医院)で二代目である。
 大正12年に臼杵通いの発動機関付の渡海船が初めて就航して毎日一往復した。臼杵町との貨物の移入は別の帆走船が就航した。
 大正12年に保戸島に電灯が開設されて島内の全家庭に電灯が点灯された。
 大正14年3月、現在の保戸島の戸数460戸で人口は2,194人であった。
 昭和36年4月10日に念願の水道が完成して、古来よりの島の水汲の風習に終止符が打たれた。
 昭和48年2月海洋汚染防止のため中島に共同の塵挨焼却場が設けられた。
保戸島の史蹟
村社 加茂神社
創立 天文4年(1553)5月吉日
祭 神 別雷命
由 緒 島の守護神として天文4年に京都上加茂神社(京都市上京区)より別雷命が遷移勧請された。当時京都に於て加茂神社は皇室の尊宗厚く伊勢神宮に次いで畏敬ある神社であった。古来より夏の大祭には御旅所の御興。綱切カグラ、夫婦面カグラ、湯立カグラが盛大に催される

ガラン(伽藍)自蔵尊
天文中期頃(記録無し古老の口伝に依る)に島の裏側瀬の浜に「ガラン(堂宇)」が建立され僧侶や行者達の修練場として島民の信仰を集めていたが天正年間の豊後の守護職大友氏と薩摩の島津氏との興亡の戦乱で彼我落武者に依り僧侶行者は追放されて彼我落武者の隠れ家となり堂宇は荒廃して焼失した。信仰厚い島民は昔を偲ぶよすがにと、其の跡地に自蔵尊を安置して御盆の16日に集落の広場に
移して供養を続けている「ガラン」様である。

法照寺 真宗西本願寺派
山号 浄光山
天正19年(1591)肥後の国、西惟に依り創立
弘化4年(1847)9月焼失
安政元年(1854)4月厳愍生再建
昭和12年8月吉日本堂及び庫裡新築
現在、第17世住職に至る   (豊後国史御領分寺社記)

海徳寺 浄土宗智恩院末
慶長10年(1605)佐賀関称念寺円誉に依り創立
山号 竜豊山
(円誉高公ハ土佐ノ国藻島ノ産ニテ三浦漢靭負ノ子也)
文政8年(1825)13世寛世再建
現在第25世住職に至る (豊後国史御領分寺社記)

御大師様
真言宗 始祖弘法大師
創立 明治13年3月吉日  松嵜大十郎・竹田理吉 両名を発起人として創立
由 緒 山内八十体は霊場より土壌を遷移して建立され毎年旧3月の例大祭には山内接待を行い盛大に施祭されている。

石鉄神社
保戸島字長租
祭神石鉄(海上守護押出ニ勧請)
創立 安永3年(1774)甲午5月吉日
社殿 堅3尺 横3尺 敷地2合5尺
由緒 寄付勧進帳に依り安永3年に押上頂上に海上安全を祈願して勧請され戦前は山武士や行者の参詣に限られていたが、戦後、島の信者に依り道が啓かれ年毎に参拝者が増加している。
明治12年7月に社殿再建
昭和53年3月に社殿及大鳥居を再建

中島の観音様
元禄4年5月(1691)建立
「由緒」保戸島と四浦半島の中島瀬戸を見下す高台に建立され、古来より島の周辺で遭難した殉難者の慰霊と海上安全を祈願して此の地に祭られ、島民の信仰が厚く、漁港の完成を契機として朝夕の参拝が旺んである。

御大師様井戸
真言宗草庵の北側、岩盤を堀削して造成された古い井戸で湧出る岩清水は島で最も良質の水で御大師様水と呼称されて、水道が開設
される迄は、島民の飲料水は全て此の井戸で補給されていた。

御虎御前様
古老の口伝に依ると、鎌倉初期、曽我兄弟の弟五郎時宗の側室、御虎御前は亡き五郎時宗を弔う為、諸国慰霊の行却中に計らずも中島の裏海岸に漂着した遣体の人品(体)家紋及び年代から御虎御前と判じ、保戸島在住の佐藤某氏は遣体を丁重に弔い、当時厄病除けの祭神とした。そして漂着の命日(御盆の17日)に毎年供養を続けている。戦後に波打際から現在地に移し安置した。
古老の話
私達が小学校に入学した頃は現在の大波磯の角に平家建の2教室の小さい校舎でしたが、現在は其の面影を偲ぶよすがは無い。
 其の頃は4年生迄でしたが、当時の島の生活環境から完全に学校に通って卒業する人は極めて少数でした。
特に戦争(日露戦争)に父兄が出征している家庭では、政府援助の皆無であった当時としては学校へ通えない実状でした。
学校に通っても出席簿を先生が採り終ると授業を受けずに帰る人もあり従って完全に授業を受ける生徒が甲で出席簿を採り終って帰る生徒を乙としていた。
入学して2年頃から6年生制となり後に地理、読本、修身、算術、珠算に水産が出来たが、教科書だけで、生徒は23人程度でした。
そして後に高等科になりました。当時は男の生徒は少なく殆んど女子の生徒で良く弟妹の子供を背負って授業を受けた。従って背中の子供が泣き出すと教室の外に出たり、家に授乳に帰って又教室に入って授業を受けると言う状態でした。
当時は1人の先生が2級を受持っていて2年を教える時は1年生は自習していたが、背中の子供が泣く時以外に自習中に教室外に出る者は無かった。現在の様な男女共学でなく、男女が別々に並んでいたので、男子生徒が特に悪戯する様な事はなかった。
服装は全て男女共に「ネル」の着物に藁ゾウリ履きで教科書は風呂敷に包んで女子は腰に結び、男子は肩に巻いて学校に通った。祝祭日以外に袴を着けているのは先生だけでした。
年1回の運動会は瀬の浜迄家族連れで―日中着物スタイルで飛んだり、走ったり色々と競技して楽しんだ。当時としては結構盛大に催さ
れていた。現在の近代化された校舎や運動場の設備には比較すベくもないが、そして学校から帰る時は先頭が旗を持って並んで帰宅した放課後は家の手伝いと、子守りで、子供を背負って縄飛びや「マリ」突等と色々の遊技をして遊んだ。
そして夏休み以外に麦苅りや甘庶堀り休み等があり、其の頃になると―日中、手伝い主に子守りをした。
電灯の無かった当時はランプ生活の為に夜間は自分―人で灯火を独占出来なかったので家庭で勉強する機会は無かった。入学して2年後に6年制度になり生徒の数も幾らか宛増加していた。
当時の生徒が先生に対する信頼感は絶対でした。従って生徒が先生の教えに違背する事等は皆無で、生徒にとって先生は神様の如き存在でした。父兄の先生に接する態度も又同様でした。授業中に男子生徒が悪戯をすると、教室に立たせる罰を先生は与えた。特に悪戯が過ぎる教員室に呼び付けて注意や訓戒を与えていた。
日常生活も現在では想像も出来ない程簡素なもので、子守や其の他の御手伝い奉公に島外に出ていた。6ケ月の子守奉公が4円50銭で、主として四浦方面で旧杵町に行く者は殆んど無く特に現在の津久見とは交流は無く、島で生産出来ない食糧品は旧杵町から櫓船や帆走船で移入していた。手紙等も旧杵迄運んでいた。
其の頃の沿岸漁業は主として餓釣りで時期的に鯛や師が釣れていた。
此の頃から「カジキ」漁の大型船(?)が旺んになり、大型船と言っても帆走の無動力船でした。島に船が不足して佐伯の大島から借船して操漁していた。
漁場は長崎県の対馬方面に時期を追って出漁していた。此の頃に初めて、動力船(木炭ガス動カ)が―隻出来た。当時の言葉でコツトリ船と呼ばれていた。
そして初めての取換者(操機者)に1人の殉職者が出た。(恐らく炭酸ガス中毒と思われる)其の頃は串ヶ脇の戸数が50ヶ位で現在の新地は串ヶ脇側は全て海で満潮の時は海沿いの道が通られず、山道を歩いて帰っていた。其の辺は小浜と呼ばれ、サザエやアワビ等の魚介類が豊富で夏休み等は1日中海で水泳や魚採りを楽しんでいた。
此の頃、既に島に安藤医院が開業されており特別の場合を除いて町の病院に通う事もなかった。
其れと最も印象に残っている想い出として2年の頃(明治29年)に擔任して項いた安藤彌吉先生が10余年振りで「アメリカ」から法事で帰国され、夫人同伴で保戸島を訪問された事である。昔の教え子達で先生御夫妻を接待した時、夫人が正座することが出来なくて足を伸ばしていたのが今も瞼に残っている。
此の頃に高等科が新設されて現在の神社の涯下広場(船曳場)に2階建の木造校舎が出来上った運動場が狭い上に暴風雨の時は防波堤を越えて波が運動場に浸入する為に授業を中止して休校する事が1年に何回かありました。
その頃は「梶木」漁期になると、殆んどの就漁家庭が―家を挙げて季節的に長崎県の対馬に渡島して行った。
当時は櫓船と帆走船で1週間余を要して漁場対馬に向けて保戸島を後にした。
従って此の頃になると島の人口は激減し生徒数も減少していた。そして其の内の何軒かは対馬に定着した。
対馬に渡って現地で学校に通ったが男子生徒は保戸島同様に極めて少数でした。
後年保戸島に遠洋漁業が旺んになり、参拾屯以上の大型発動機船(当時としては)になり船長、機関長の海技試験を受けるに際し文字を解しない人が多く、何故あの当時に学校で真面目に勉強しなかったろうかと切歯して残念がる人が多かった様でした。
そして一時期にもせよ対馬で小学校に通った頃が思い出される。
対馬の交通機関は、現在でも時々「テレビ」で照会される通り、現地産の「馬」で前の袋に子供を入れ背に人が乗っていたが、暗い夜道でも眼を閉じていると家迄運んで呉れた。
現地対馬の人達は、対馬名物言うならば「トンビ、カラスに屋根の石」と良く言っていた。そして此の頃(大正11年頃)から土佐清水沖の「トンボ縄」が始まり、保戸島へ続々と引揚げが始まり対馬小学校の先生や級友達が懇親会を開いて別離を惜しんだ事が今も思い起される。
此の頃から新地の海の埋立てが始まり護岸工事が施行されたが、現在の様な工事技術が無い当時の事で夏に護岸して冬に激浪で壊される状態の繰返しで何時も建設業者が帯在して補修工事に当ってぃた。現在の埋立て護岸工事の状態を見る度に、当時を思い隔世の感―入と言った所です。
保戸島小学校爆撃の記録昭和20年7月25日
豊後水道に浮ぶ保戸島小学校(当時国民学校)で、学童124人を含む127人が死亡、75人が負傷すると言う信じられない惨劇が起ったのは7月25日朝の事でした。
其の日保戸島小学校では、午前8時半から朝礼が始まる全校児童96O人が校庭に集まって先生方の話しや注意が終ると児童は列を正して先生の後に続き各教室に流れて行った。
そして午前9時頃に、かすかな爆音、銀色のB29が学校上空を北上するのが見えたが危険無しと認めて授業は其の儘続けられた。
次第に遠ざかり行く爆音に「ホット」した時、突然「空襲」と言う村人の叫び、同時に金属性の耳をつんざく轟音と「ドカーン」と地響きのする爆発音があった。
学校の北西側の角の2階建て校舎を直撃した爆発音であった。
四機編隊のグラマン投下爆弾4発の内1発が学校を直撃した。
時刻は午前9時20分頃であった。
此の時の死傷者は死者 教師2、学童124其の他1重傷者教師1学童 9軽傷者教師5学童 60今は遠洋漁業でうるおう平和な島に決して癒える事の無い戦争の悲しい痛恨事であった。
其の後、殉難学童の父母有志に依り慰霊碑が建立され、再び戦争の悲惨を繰返さない様語り継がれ供養を続けている
爆死した教師及児童氏名
林シゲ子  高橋ミヨ子  西田節美  西田宣康  日下ヨシミ 野村郁子  中島清正  井上ナミエ  木原アキ子  木原静香 蓑部 忠  岡野秀喜  西田和光  月元時彦  桜井八代香  野口光正  大田君香  鶴橋陽子  司 満彦  野ロ順子  中島春実  中村忠彦  木原キヨ子  永野ユキ子  盛口初義  木原キヨミ  鶴橋トキ子  中邑松重  石田欣子  薮クニ子  中島キヨカ  川崎清美  三木弘重  宮本鉄弥  矢内茂高  矢内ノブヨ  矢内カズ子  高司タマミ  七五三正則 矢内絹代  小寺サツキ  月元 潔  吉岡幸正  石田スズミ  大倉アツ子  山崎ミヨ香  三木繁彦  吉田作子  大倉高峰  西田マスミ  西田正人  野村清高  中島重幸  佐藤和代 古田チヨミ  石田如月  石田成典  古田豊年  中島英美子  宮崎ミエ子  神崎キク子  神崎義久  長瀬靖彦  永野隆千代  高瀬和子  西田イチ子  岡野興志子  薮 義行  梅田ツネ子  神崎興志雄  薮多美枝  神崎チズ子  日下満洲雄  野村チヨ子  野村勝行  大倉弘泰  大倉七雄  日下チヨミ  吉川ミツカ  山崎 享  渡辺俊男  渡辺ミヨ子  幾田ルミ  西田ハルエ  高司英範  中村秀人  安藤信広  江口フジ子  宮本―正  高木タカ子  吉田寿保  岩田道行  山下直美  三浦房人  鈴木昭代  上田タケ子  梅田兼近  西崎宏正  高司シズ子  野村ミホ子  有馬カ也  西田尚信  三木 宏  小山哲彦  中村ツヤ子  中島トキ子  矢内カツミ  矢内光彦  矢内―雄  山木高―  吉岡キヨカ  林アキ子  中村マチ子  清原佐代―  島田スマ子  江藤敏正  島田チドリ  山崎松吉  島田繁代  高司 洋  宮崎輝俊 中島チカ子  清家八吉  日下光子  松野好子  林 慶喜
保戸島マグロ漁業のあゆみ
中村繁人

保戸島の漁業が保戸島沿岸から外に出たのは、明治23年に清田寿松氏が長崎県(当時対馬の国)下県郡船越村賀谷に渡り、主として鱶縄を始めたのがその発端と言われ、その時期、小寺藤吉氏も夫婦で櫓船(約1屯)にて賀谷に移り、いかつり漁をしていたが、梶木まぐろが多い事を知り、いかつりから梶木まぐろ獲りに切り換ったとの事。この事を知った保戸島沿岸漁民3隻が後を追って梶木まぐろ獲りに参加し、漁船の改造、漁具の改良等が加えられ、4人乗組みの櫓船(約3トン)で梶木まぐろを突き、あるときは6反帆を巻き上げ4丁櫓にて豊漁に恵まれ対馬地区では―流の漁船として名声を博した。
漸次この漁業が発達し、明治36年、10隻、明治37年には20隻を数えるに至りました。しかしこの漁業は春期が盛漁であることから春期以外の時期の漁業を考えていたとき、高知県土佐清水市(当時高知県清松村字清水)にネブト漁があることの報に接し、4隻にてこの漁場を視察したところ可成の漁が見込まれることから25隻余で集団操業を実施していたとき、ネブト漁操業中「トンボシビ」や「メバチマグロ」が釣れる事を知り、又、価格がネブト魚に比ベ「トンボシビ」や「メバチマグロ」が高いのは解り乍らも、はえなわ漁具の購入資金が極めて困難であったが漁具の共同購入等により思い切って、まぐろはえなわに転換したのが、まぐろはえなわ漁業の始めと言われております。
大正7年、15馬力の無水焼玉機関の漁船1隻が建造され、船の大きさは約8トンで、7名から8名が乗組み、対馬の梶木突きや清水のまぐろはえなわ漁業を時期によって操業し、大正9年にはこの型の漁船が21隻に増加しており、大正11年には、35馬力で約12トンの大型船が建造され、まぐろ漁業が年間を通して操業出来るよう漁場の開拓を図るベく大分県より補助金30円を受け三陸沖に出漁、釜石港を基地として、まぐろはえなわを操業、大漁の成績にて帰島し、保戸島を賑わしたとの事であります。
この漁に刺戟され大正12年には27隻の船団を組み、7月より10月まで三陸沖及び北海道沖を漁場とし11月から翌年5月まで清水沖―紀州沖を漁場としてまぐろはえなわ漁業の操業型式が固定化する時代となったのであります。
大正13年、梶木まぐろ突棒漁船及び、まぐろはえなわ漁船の総教は70隻余となり乗組員500人余となり第―期保戸島遠洋漁業の
最盛期となったのであります。
昭和8年から昭和18年までが第二期保戸島遠洋漁業の隆盛時代であり、船型も30トンから40トン級の漁船となり、その数89隻、乗組員1,000人余となり、年間300万円余の総水揚金額を収めるに至り、北は北海道沖から南は大東島付近まで出漁し、全国にその覇を競って生産の大勢を決し、まぐろはえなわ漁業においては日本―と折紙をつけられた保戸島漁民でありました。
然し、昭和18年以後、戦争により是等多数のまぐろ漁船は軍の徴用、その他漁業資材等の不足により悉く消減し、戦後は止むなく沿岸一本釣漁業に依存しなければならない情況となったのでありますが、余りにも多数の沿岸漁船と戦後急激に増加した人口により漁場の狭溢は申すまでもなく漁場の争奪と密漁船の横行により年々漁獲の減少を期し、益々沿岸漁民の生活を脅やかすものとなったのであります。この窮情打開の対策として、昭和26年に漁業法の改正のもと国が漁業権の買上げを行い、この資金約560万円を基金として農林中央全庫の融資を受け、当初深海瀬魚釣及び突棒漁業を目的とし漁業組合自営にて25トン級木造漁船4隻を建造し、後にまぐろはえなわ漁業に転換させたが、この自営漁業を昭和39年に廃止し、漁民個々のカを発揮出来る体制を整え、又、国の行政指導のもと「沿岸から沖合へ、沖合から遠洋」への復活を計画し漁民が漁業組合に結集して水産系統融資を仰ぎ、昭和54年3月31日現在では、まぐろはえなわ漁船19トン型36隻、49トンから79トン型まで101隻、合計137隻を擁し、年間総水揚高106億円余となっており、第三期保戸島遠洋漁業時代を続けておりますが、まぐろ業界を取巻く環境は国際的にも国内的も非常に厳しいものがあり、国際的には200海里間題、国内的には魚類流通機構の複雑さによる魚価の不安定と種々間題をかかえ乍ら、これからの保戸島まぐろ漁業は正に正念場を迎える時代に差しかかっていると言えるのではないでしょうか。
以上の通り、保戸島まぐろ漁業が歩んだ道程の中には先輩の開拓精神と海に生きる漁民としての信念と努力が今日の保戸島まぐろ漁業の礎であった事を私たちは感謝しなければならないと同時に、海難事故によって尊い生命を犠牲にした方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。
保戸島漁港の沿革並びに経路

本漁港は、四浦半島の先端に位置し、周囲約4km、戸数656戸、人口3,044人(昭和52年3月末現在)の超過密な豊後水道に浮ぶ離島である。
漁船は、地下船溜り(大正末期〜昭和初期建設)と串ケ脇の砂浜―帯(現小、中学校敷地)を利用して漁業をしていたが、大型漁船の利用は困難であり、下記経路により現在の中の島地区が完成した。

(1)漁 港 指定………昭和28年3月25日付農林省告示第143号,第四種
(2)漁港管理者指定………昭和29年10月21日付農林省告示第684号,大分県
(3)整備計画の承認………昭和30年8月22日第22国会承認,第2次漁港整備計画
(4)工 事 着 手………昭和30年11月事業費4百万で東護岸に着工
(5)離島振興法指定………昭和32年8月16日
(6)第1期の完成………昭和34年3月31日(港口がかもんばえ北側)
(7)中の島泊地完成。……‥昭和51年3月31日(港口がかもんばえ西側へ移る。)

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